1400字制限

最近の記事のほとんどが1400字を超えているのでタイトル無視も甚だしいが1400字「以下」に制限するとは言っていない

聖書趣味ついて

ハンドルネームで分かると思うが僕はキリスト教徒である。少なくとも信仰について聞かれる機会があったらそう答えている。僕は祝日に日章旗を掲げたりしないけれど日本人だし、「父母を敬え」「偽ってはならない」といった十戒をろくに守ってないけどキリスト教徒だ。

小学生のころは日曜のたびに教会に通っていて低年齢向けにアレンジされた聖書を読んでいた。当時からダーウィン進化論というものは知っていたが、それが聖書の教える創造論と矛盾している事を気にしたことは無かった。

なぜ気にしないのかと言えば、別に聖書の記述がフィクションだと見抜いていた訳ではなく、子供はその程度の矛盾は受け入れられる仕様になっているからだ。学校で「かめはめ波」や「アバンストラッシュ」の練習をした子供は山ほどいても、ドラゴンボールダイの大冒険の世界観が矛盾しているとジャンプ編集部に文句を言う子供はいなかった。たいていの人間はいくつもの世界観を同居させられる程度には脳に余裕がある。

そんな僕も小学校高学年くらいになると「聖書はただの作り事だ」と思うようになり(いわゆる反抗期)、中学生くらいでイスラエルという民族が実在すると知って驚き、最終的には「実話をもとにしたフィクション」くらいの地位に落ち着いた。が、それによりむしろ聖書の面白さを理解できるようになった。聖書の記述を追っていくと、人間がこの世界の成り立ちや偉大な人物をどのように描いてきたのかを理解することが出来る。

たとえば新約聖書には「福音書」という文書が4編収録されている(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)。4編ともイエスの生涯と言行録なのだが、内容が執筆時代とともに少しずつ変化している。これは教会の権威確立にともなって、教会の基礎である使徒がちょっとずつ偉く書かれるようになったからと言われる。そういう極めて人間的な事情が多分に含まれているのだ。

そもそも、パレスチナの平凡な家庭に生まれながら2000年にわたって世界史に決定的な影響を与えているイエスという男は一体何者だったのか、全く興味を持たずにいられる人間はそうそう居ないだろう。遠藤周作などは自分なりのイエス観を作家としてのメインテーマに据えている。

ところで日本人の信仰心というのは世界的に特殊だと主張する日本人は結構いるけれどこれは嘘だと思っている。僕がキリスト教徒を名乗っているのに聖書をろくに守らないのは日本人の特殊性では全く無い。欧米でも聖書を文字通りに守るひとは fundamendalist (根本主義者) と呼ばれて別枠に置かれている。「聖書の教えを1年間忠実に守ってみた」という話が書籍として売れる程度には、みんな聖書を守っていない。

聖書男(バイブルマン)  現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

聖書男(バイブルマン) 現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

 

 

日記についての日記

何でもコツコツ続けると良いことがあるらしい。僕はここ5年 Twitter 界隈に入り浸っているおかげで色々なスキルを覚えた。

まず研究室で快適に Twitter をするために Google 検索画面そっくりの Twitter クライアント というのを作り、これのお陰で PythonJavaScript と nginx の使い方を覚えた。ここで得た技術をもとに 人を馬鹿にしたブロックくずし を作って各種ネットメディアで取り上げられたり、日々投稿しているネタツイートをもとに 横浜駅が自己増殖して日本を覆い尽くす未来小説 を書いて小説投稿サイトカクヨムで週間総合1位をとったりした。詳しくは書かないけれど結構な金銭も得ている。

そうこうしているうちに Twitter のフォロワーがだいぶ増えて「あいつはアルファツイッタラーだ」と呼ばれるようになった。ろくに本業をせずにツイートばかりしているという侮蔑的な意味も多分に含まれているのだと思う。本業をおろそかにしているのは事実なので反論のしようもないが、正直なところ本業よりも上述のようなよくわからない諸々を作っているほうが生産性が高いような気がする。

ただインターネット世界というところも細分化が進んでおり、僕の所属している界隈では水素水の科学的根拠の無さがごく常識的に知られているのに Google で検索してみると肯定的な記事ばかり出てくるので自分が狭い世界に閉じこもっているということはしばしば思い知らされる。というわけで活動範囲を拡張するためにブログをコツコツ書くべきではないかと最近思っている。だからこんなどうでもいい記事を書いている。思いついた文字をだらだら並べた記事をたくさん書けばそのうち遺伝的アルゴリズムによって良い記事の書き方を徐々に体得できるのだろう。

ところでブログ界隈というところは遠巻きに見ていると自己言及性が高すぎるように思える。つまりブログでブログ論ばっかり書いてる。「ブログで金儲けする方法」とか「ブログで金儲けする方法ばかり語られる近年のブログ界隈の問題」とか「ブログで金儲けする方法を主張する自由」とかいう感じのがソーシャルブックマークの上位にやたら見られる。もちろん能動的に自分の見たいものを探しに行けばそんなことはないんだろうけれど僕はいまのところ遠巻きなのでそういう印象を持っている。かくいうこの記事もブログについてのブログである。インターネットはそのうちいくつかの自己言及の渦に落ち込んでいき互いが言語レベルで通じなくなるんじゃないかと不安になってくる。そういう意味もこめてなるべく隣の渦にちょいちょい顔を出してみようと思う。

ちなみに上述した小説投稿サイトカクヨムも最初の1ヶ月くらいはランキング攻略法とかサイト運営批判とか僕の私の創作論とかいった小説でないものを書く人がいっぱいいたので外部から見たら相当寒い状況だったと思う。このへんは双方向メディアの宿命的な問題というものだろう。マスコミとかは逆にもう少しジャーナリズム論を語ったほうがいい。

移動趣味者というもの

このブログは1ヶ月以上更新しなくても「この広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されます」という広告が出ないらしい。素晴らしい。しかし Twitter ばかり書いてブログに何も書かないと本格的に長文が書けない人間になってしまうので何かを書く。ネタが思いつかないのでお題スロットというのを回す。

お題「好きな乗り物」

小学生か。

好きな乗り物について書くというのは結構難しい。というのは僕は乗り物といえるものがほぼ全て好きだからだ。自転車も好きだし自動車も好きだ。電車も好きだし新幹線も好きだし船も飛行機も好きだしバイクも好きだ。というか徒歩も好きだ。

一方で、こういった乗り物のメカニックに対する興味はそんなに強くない。電気系統とかエンジンとかいったものには詳しくない。僕はキーボードを叩くのは好きだがドライバーやレンチを回すのは好きじゃない。要するに僕は「移動」が好きなのであり、その手段として乗り物が好きなのである。

大学時代は家賃の安さを理由に僻地に住んでおり、大学まで自転車で40分かけて通学していた。友人たちは「あの場所から自転車で通うなんて正気じゃない」「授業に出ても疲れて寝てしまうだろう」と言っていたが全くそんなことは無かった。むしろ走っている最中の方が頭が冴えた。授業中に解けなかった数学の課題の解法が、帰り道にサドルの上で閃くということは日常茶飯事だった。

おかげで大学院に進学して通学時間が15分になると明らかに頭脳のパフォーマンスが落ちた。これではまずいと思い、次の住所ではまた大学から遠い場所をわざわざ選んで通った。

今でも重要なことを思いつくのはだいたい自転車の上だ。アリストテレスは学園を歩き回りながら授業を行ったことから彼の一派を「逍遙学派」と呼ぶことがあるが、おそらく彼も僕と似たような体質だったに違いない。 

移動趣味者なので当然ながら旅行は好きだ。移動自体が目的なのでなるべく遅い移動手段で地理構造を体に覚え込ませるような移動が望ましいが、時間が有限なので遠くに行きたい場合は飛行機や新幹線も必要だ。

さて、不況が続くと観光のようなレジャー産業はまず真っ先に苦戦するところであろう。旅行雑誌るるぶは「見る・食べる・遊ぶ」の略ということだが、こうも交通や情報のネットワークが発達すると、見たり食べたり遊ぶためにわざわざ現地に行く必要性がどんどん下がっていく。一方で「移動趣味者」というのは本当に移動そのもの、地理的構造の把握が目的であるため、この現代バーチャル社会において取り入れるべき層なのではないだろうか。旅行の魅力というのは現地の魅力だけではなく、経路の魅力でもあるのだ。

などと言ってみたが、移動趣味者は本当に移動しかしないので現地に行っても大して地元に金を落とさず帰ってしまうので儲かるのはJR各社くらいだし、だいたい「取り入れる」といっても何もすることが無い。そこに道があるから行くだけなのだ。

小説新人賞に対するひとつの提案

現在、小説投稿サイト「カクヨム」では第1回Web小説コンテストというものが行われている。約1ヶ月の「読者選考期間」を経て上位に入った作品から編集部の「最終選考」で受賞作を選ぶシステムである。

読者選考期間は4月7日までなのであと4日で終わるわけだが、ここにきてある応募者の選考システムへの要望が話題となっている。

kakuyomu.jp

要約すると「読者選考は相互評価などによる不正が蔓延していて純粋な読者が少ないのでシステムとして破綻している」という主張である。このランキング不正の訴えに多くの共感レビューがついて、週間ランキング「エッセイ・ノンフィクション」部門で本日の1位にランクインしている。おめでとう。

わざわざ最初から「読者選考でやります」と大々的に宣伝してる賞に応募してから「読者選考は不当だ」と言い出してる人が結構いるらしい。僕がざっと読んだ限りではランキング上位の作品は概ね面白いし、仮に何作かが不正でランキングを上がってきても編集部が最終選考で弾けば何も問題ない気がするが。

しかし彼らとしても数ヶ月準備してきたであろう長編小説が全く読まれず評価されないとなると感情的に許容できないだろう。そこで僕なりに「こういう人のための小説新人賞」を考えてみた。

まず「全部の作品を精読してほしい」というのが要望らしいが、一般的な新人賞でも全作品を精読しているとは到底思えない。何百もの応募作から「受賞に足る作品」を選ぶだけなのだから、ざっと見て面白くないと分かる作品はすぐ弾かれていると判断すべきだろう。給料の出る下読みがやってるからこそ、その程度の効率化は当然だ。

そこで本コンテストは読者に委ねているわけだが、読者はボランティアなのでタイトルや紹介文をパッと見て面白そうな作品しか読まない。従って「一見退屈だが、きちんと読んでくれれば面白いと分かる!」と思ってるあなたの作品は読まれない。

ここでの問題は要するに「読み手の人件費が足りない」「応募作が多すぎる」ことだ。これを一挙に解決する方法は「応募者から参加費を徴収すること」である。これにより

  • 応募作品数が減る
  • 金を払う程度の自信作しか応募されないので、平均的な質の向上が期待される
  • 参加費を審査の人件費に回せる
  • よって各作品が精読される

となる。おお、こんな良いアイデアをなぜ誰もやらない? と思ってたらやってる人がいた。

www.boiledeggs.com

参加費は7000円。原稿用紙200枚から500枚なので6万〜20万字程度の長編か。1名の審査員が応募作すべてに目を通し受賞作を選び、それを10社の出版社が入札により書籍化するというシステムらしい。

年に1〜2回開催されていて、過去の応募作を見てみると概ね50〜100作ほど。毎回数作には詳細なコメントが添えられているので、概ね精読されていると考えていいのだろう。というわけで、冒頭の記事に賛同されている方は、こういうタイプの賞に応募してみるのは如何だろうか。ライトノベル的な傾向の強いWeb小説とはだいぶ方向性が違う気がするが、カクヨムにもどう見てもラノベでない何かを上位にぶちこんでる人は多い。書く側にも読む側にもそのくらいの鷹揚さはあっていい。

要するに、運営側が賞の方針を選べる程度には応募者も賞を選べるのだから、根本的な賞のあり方に文句を言うより自分に合った賞を探すほうがよほど効率的である。

 

横浜駅SFのこと

横浜駅が自己増殖して日本列島を飲み込む「横浜駅SF」という小説を「カクヨム」にて掲載しています。「あらすじだけで腹筋が崩壊する」など多方面で好評をいただいてまことに光栄に思います。

kakuyomu.jp

この話が出来た経緯

  • 2015年1月4日の「横浜駅は生命体である」というネタツイート
  • 同日 なぜか Twitter 連投小説化 (Togetter)
  • 同年5月〜11月 なぜか長編小説として連載 (Tumblr)
  • 2016年2月29日 Web小説コンテストに応募 (カクヨム)、外伝的なものを連載開始
  • 同年3月9日時点 なぜかランキング総合1位

という感じで、作者の手に余るところまで自己増殖してきたところです。おかげで最近はろくにご飯も食べられず、ベルトの使ったこと無い穴を使いはじめました。

これって○○のオマージュ?

Twitter版はほとんど弐瓶勉の「BLAME!」パロディのつもりで書いてます。長編化にあたって設定を練り直す段で椎名誠の「アド・バード」の要素を多数取り入れてます。あと冒頭で主人公が富士山を見るシーンは「ヨコハマ買い出し紀行」を意識してます。あれは富士山が減る話ですが、こっちは増える話です。あと言語を倒錯させる発想はやはり「ニンジャスレイヤー」かな。

要するに作者の好きなSFを色々寄せ集めています。いま挙げた作品はどれも面白いので、これが気に入った人はぜひ読んでみてください。

これは結局ジョークなの? 真面目なの?

作者は「ジョークこそ真面目にやるべきだ。ジョークをジョークでやってはいけない」という信念で生きています。

ランキング総合1位といっても例の炎上物が排除されたからだよね

いちおう累計PV数では勝ってますね。(2016/03/09時点)

ファンアート描きたいんだけどキャラデザがよくわからない

ありがとうございます。本当にありがとうございます。キャラクタデザインに関しては近況ノートの当該ページに書いておりますが、要するに明確には決めていないので読者のイメージで描いていただければと思います。

作者としても読者のイメージを知りたいので、今までもらったものは公開せずにこっそり溜め込んでいます。

読んだけど面白くなかった。みんなが絶賛するのが理解できない

実際PV数を見ると1話目を開いた人の85%は途中で読むのをやめてますから、面白くないと思ったあなたは多数派です。そもそも10万部売れればベストセラーという時代に「誰が読んでも面白い小説」があるわけがないので、絶賛している「みんな」というのは実は少数派なんです。少数派の考えをひとつひとつ理解するのは難しいですし、そうする必要もないと思います。

作者は鉄道マニア?

違います。キハとかクモハとかいうのは全然知りません。ただの旅行好きです。これは鉄道の物語ではなく、駅の物語です。

タイトルもう少し練らなかったの

…最初は「あとでちゃんとしたタイトルを考えよう」と思ってたんですよ。

誤字・脱字をみつけた

Twitter @yubais から報告していただけると犬のように喜びます。カクヨムがそういう機能を実装してほしいんですがね。

この作者のほかの小説も読みたい

カクヨム短編集もやってます。不定期更新。

大長編ドラえもん「のび太とアニマル惑星」を読む

藤子・F・不二雄作品の Kindle 化が進んでおり、長く絶版状態にあった「オバケのQ太郎」も気軽に読めるようになったのでファンとしては嬉しい限り。というわけで今回は「大長編ドラえもん」から「のび太とアニマル惑星」を紹介したい。(激しいネタバレあり)

この作品の舞台は動物たちが平和に暮らす「アニマル惑星」である。動物の世界が舞台という点では第3作「大魔境」と共通しているが、さすがにアフリカが人外魔境という設定はもう無理と思ったのか、アニマル惑星は地球から遠く離れた星系にある。また犬だけで成り立つ「大魔境」と違ってこちらは多種多様な動物(魚類も含む)が平和に共存している。戦争がないので軍隊もなく、治安もたいへん良いらしく警官は町にひとりだけ。政情不安定や地上げ屋に慢性的に悩まされる大長編世界で、アニマル惑星は際立って理想郷として描かれている。

F先生の大人向けSF短編であれば「肉食動物が草食動物を食べて生態系が成り立つ」とかいう描写を普通に入れそうな気がするが、本作は「ドラえもん」であるため、食糧供給は光合成技術により成り立ち、エネルギー供給はドラえもんをして「こんな効率のいいものは二十二世紀にもない」と言わしめる太陽電池によって成立している。理想郷は自然への回帰ではなく高度な科学技術による、という思想がかいま見える気もする。

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この世界には建国神話として「月に住んでいた先祖が、神様の手によってニムゲという悪魔を逃れてこの星に来た」というものがある。このニムゲというのは人間のことであり、アニマル惑星は環境破壊や核戦争によって文明崩壊した人間の星との連星系になっていたのだ。

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のび太たちはアニマル惑星を、前半はのび太の家に偶然現れた「ピンクのもや」で、後半は宇宙救命ボートで行き来することになる。その途中で地球の環境破壊の現状が紹介される。解説役はのび太のママ。大長編では珍しくちゃんとした役割がある。

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こんな具合で「のび太とアニマル惑星」は「現状のままでは地球が文明崩壊してニムゲの星のようになってしまう」というわかりやすい寓話として構成されている。寓話要素の高めなドラえもんの中でも、この話はとくに直接的な構成になっている。悪く言えば説教臭い話である。

実際のところ、F先生は文明崩壊について相当な危機感を持っていたように思う。環境破壊や核戦争で人類滅亡というのはSF短編で繰り返し提示されるパターンだ。「のび太と雲の王国」「海底鬼岩城」でも、人間(地上人)は地球を汚す存在として描かれている。

このタイプの寓話はさすがにドラえもん時代に「やりつくされた」と感じたのか、90年代以降は岩明均の「寄生獣」に代表されるように、むしろ人間の立場を相対化した作品が人気を博すようになる。ソ連崩壊で全面核戦争のリアリティも失われ、ノストラダムスに予言された滅亡の99年を過ぎると、ニムゲの星のような終末論的世界観はSF世界の王道から忘れ去られつつあるように思う。ここらでひとつ「ドラえもん」を読み返して、この時代に提起された問題にあらためて思いを馳せてみたい。

アボガドロ数とアボカドの数はどっちが多いか

アボカドの出荷量は年間400万トン程度。1個300グラムとして100億個程度なので、成熟前のものや出荷されないものを含めても10^11程度だろう。アボガドロ数は 6x10^23 なので12桁違う。桁違いの桁が違う。

「化学のモルが分からなくて理系を諦めた」という人をよく見る。モルは原子の数を扱う単位で、鉛筆をダース(12個)単位で数えるのと同じようなものである。「なんでそれが分からんのかが分からん」と僕は思うが、なにしろ数がべらぼうに大きい(60,000,000,000,000,000,000,000個 = アボガドロ数)せいで人間の思考能力を破壊するのかもしれぬ。そこでアボガドロ数を色々なものと比較してスケール感を掴もうと思う。

地球をアボガドロ数個に分ける

地球を巨大なヨーカンだと思い*1アボガドロ数のブロックに分割すると、1個大体1.7リットルになる。2リットルペットボトルにヨーカンを詰め込んで、アボガドロ数だけ宇宙に放り投げて重力で寄せ集まる様を想像して欲しい。それが地球である。

地球そのものをアボガドロ数分割してもわりと身近なサイズなので、地球上に存在する身近なものをアボガドロ数用意するのはかなり難しいものが分かる。

砂粒とアボガドロ数

サハラ砂漠で概算する。面積は1000万km2。厚さについては色々な数え方があるが、ここでは少なめに100mとしよう。すると体積は10^15m3程度。砂の定義は「粒径2mm〜1/16mm」らしいので占有する体積は0.1mm3程度とする。この時点で10^25個でアボガドロ数を超える。地球全体の砂ともなればさらに1〜2桁多いだろう。

トランジスタアボガドロ数

2015年時点でのトランジスタ数は1.2x10^21個くらい*2らしい。つまり現時点でアボガドロ数に500倍足りない。インテルによると5年で15倍になってるらしいので、このペースで行くと2027年にトランジスタ数がアボガドロ数に達する。ムーアの法則破綻説が頻繁に言われるのでそう順調に増えるかどうかは知らんが。

ヒト細胞とアボガドロ数

ヒト細胞はよく60兆個と言われるが、最近の研究*3では37兆程度程度らしい。人類は70億人いるので、ヒト細胞の総数は2.6x10^23個程度でアボガドロ数の半分弱。160億人いれば足りるが、国連の予測では2100年の地球人口が110億とあるのでだいぶ先になりそうだ。

まとめ

砂とかトランジスタとか細胞とかいったミクロなものを、地球全体とか人類全体とかいうスケールで合計すればわりとアボガドロ数に近い。ただしアボカドの数では足りない。とても足りない。なお僕はアボカドをスライスして醤油をつけて食べるのが好きだ。