1400字制限

最近の記事のほとんどが1400字を超えているのでタイトル無視も甚だしいが1400字「以下」に制限するとは言っていない

フィクションの科学的正当性について

先日「シン・ゴジラ」を見てきたので、生物学的な観点からゴジラについてコメントしたい。作中でゴジラのゲノムサイズはヒトの8倍という事から「ゴジラがこの星でもっとも進化した生物である」といった発言があるが、ゲノムサイズというのは別に進化の度合いとは関係ないのでこの発言は間違いである。そもそも進化に大小関係のようなものは無いので「この生物はあの生物より進化している」といった概念は基本的に存在しない。たとえばコムギのゲノムサイズはヒトの6倍くらいあるが、自分が焼きたてのパンよりも劣った存在であると認められる人間はどれほどるだろうか。また作中で「シーケンスだけで何年かかるか」と言っているが、現在DNAシーケンサというのはムーアの法則を超える勢いで進化しているため

……といった事を書こうと思ったのだが、そういう話はもっと専門に近い人がやるべきなので止める。それよりも少々メタな話をする。こういう風にフィクション作品の科学的部分について言及すると

ゴジラの存在自体が荒唐無稽なのに、細かい部分に科学的正当性を求める意味があるの?」

という言い出す人がかならず現れるので、これについてコメントしたい。

この反論は簡単だ。フィクションというのは別に「虚構であること自体」を楽しむものではない。楽しいから虚構を容認するのである。よって嘘は最小限でなければならない。よって科学的正確さが必要である。以上。

こんな事は物語の消費者にとって当たり前の事で、みんな頭では理解しているだろう。しかし、自分の好きな作品に変なオッサン(オバサンかもしれない)が「科学的正当性が〜」などといって作品を批判するのを見ると、やっかみたくなるのが人情というものだろう。

しかし、ここに重大な誤解がある。科学の専門家がSF作品の科学考証について言及する場合、それが「作品批判」である事はほぼ無い。では何なのかというと「自分の専門について言及する数少ない機会だから言及している」のである。

科学の専門家というのは往々にして「不可解なもの」の象徴として扱われる。家族友人にも自分の仕事について全く理解してもらえず「なんか大学で座禅組んで宇宙と一体化しようとしてる人」などと思われている。たとえノーベル賞を受賞しても人柄と卒業文集ばかりが報道されて、ろくに研究内容が理解されない。

こういう立場の人達が、世間で話題の映画と自分の専門内容をからめて喋る機会があったら、それを黙って見過ごせというのはあまりに酷だ、というか不可能だ。作品の良し悪しを言及しているのではない。自分が喋ることがあるから喋っているのだ。

……もちろん中には本当に科学的正当性を作品評価とダイレクトに結びつける人がいるかもしれないが、そういうタイプの人はそもそもフィクションに向いていないので、映画館に足を運ぶことはあまり無いと思う。

尚、ここに書いたのは「科学の専門家」の話である。フィクション作品の科学的正当性について言及する人種は他に「SFマニア」というのがいるが、この層は僕とあまり絡みが無いので不用意な言及を控えたい。

ホイップクリームをボウルいっぱい食べる事と、小説を書く事

このまえ小学校の卒業アルバムを見ていたら「将来は小説家になりたい」と書いてあって、そうか僕は小説家になりたかったのか、ということを思い出した。

先月「横浜駅SF」の書籍化が決まったので、これで小学生時代の夢は叶ったことになる。ちなみに中学時代の夢は「作曲家」で高校時代は「研究者」なので、3つの夢のうち2つは叶ったわけだ。なかなか悪くないスコアだ。

ところで、将来の夢というのは暗黙的に「職業」を書くものと決まっている。子供なのだから「ホイップクリームをボウルいっぱい食べたい」とかいうことを書いてもいい気がするのだが、そういうのを書くと先生に訂正を求められる。学校教師というのは基本的に公務員であり、つまり国家の走狗となっていたいけな子どもたちを管理教育し将来の納税者に育て上げるのが仕事なので仕方ない。

僕は空気の読める子供だったので小中高とちゃんと職業らしい夢を書いてきた訳だけれど、いまから考えてみると子供時代の僕が「職業」だと思ってきたものの多くがどんどん職業として成立しなくなってきている気がする。小説家なんてのもその例だ。ただ、こういう事実が必要以上にネガティブに取られているように感じる。

ネットでよく「デビューした小説家のうち10年後に生き残れるのは何割」とかいう話を聞くんだけれど、多分これは「生き残る」という問題設定自体が間違ってる。この「デビューした小説家」の中には、職業として小説家になろうと思ったのではなく、趣味で書いたものが上手いこと商業化してしまった(でも長くやるつもりは無い)という人が山ほどいるはずだ。

僕自身「横浜駅」を書いたのは完全に趣味だが、とりあえず貰えることが確定している賞金(100万円)と初版部数印税(まだ決まってないけど概算は出来る)を計算してみると、学生時代にやった在宅バイトよりもかなり割が良い。職業だと考えるとポスドク以上に先行き不安なので悲観的にもなるが、僕は単に人生のボーナスだと捉えている(割がいいので今後も書くつもりだが)。

そもそも小説執筆というのは、経験がものを言う作業とは思えない。漫画家ならたいてい連載を経て画力が向上するけど、小説家の文章力というものが経験で向上する例を僕はあまり知らないし、むしろデビュー作が最高傑作と言われる作家は山ほど知っている。他の職業で得た専門知識で小説を書く人もいる。本来的に副業向けの営みと言えよう。

実際、この国には紫式部から数えても1000年の小説の歴史があるわけだが、その頃は小説なんて宮中の貴族しか読めず、職業にはなりえなかった。専業の文筆家なるものが成立したのは江戸中期の十返舎一九の頃からで、せいぜい200年くらいだ。おそらく人口増加と識字率の向上により「小説が読める人」が増えたせいだろう。

しかし、さらに教育が普及すれば今度は「小説が書ける人」もどんどん増える。こうなると山ほどいる潜在的作家の中から実力者を探す手間が生じるが、ネットのお陰でそれもだいぶ軽減される。こうなれば一人あたりの儲けが減って、職業でなくなるのも当然だ。

こういうのは経済動向とか出版社の営業努力とは全く別の次元の問題である。ホイップクリームをボウルいっぱい食べることが職業になる時代が人類史上一度も無かったように、世の中の大抵のものは職業として成立する時代がそう長くないのである。

 

小型二輪AT限定免許をとった

先日いろいろあってバイクの免許をとった。「小型二輪AT限定」という極めてみみっちい免許だ。

以前書いたように僕は移動趣味者(観光地を点として巡回する旅行ではなく移動そのものを趣味とする人種)なので、移動手段のひとつとしてバイクには以前から興味を持っていたが、四輪免許取得にかなり苦労したのでいまさら教習所に行くのも億劫だと思っていた。

しかし実際に行ってみると、四輪を既に持っているなら二輪はわりと簡単で、小型二輪であればさらに簡単で、AT限定ともなればもはや「歯医者行って親知らずを抜くほうが大変」というレベルだった。教習9時間プラス実技試験(学科試験なし)で、教習所に6回くらい行ってそのあと免許センターに行ったらあっさり取れた。費用は7万円ほど。

バイク趣味者であれば小型二輪AT限定などバイクとして認めないかもしれぬが、僕はバイク趣味者ではなく移動趣味者であり、移動趣味者というのは移動の風情を失わせる高速道路というものをとかく軽蔑しておるので、下道を車同然に走れる小型二輪があれば十分目的に足りるのである。あと被災地とかで結構活躍するという話を聞く。

さて、ここで我が国の自動車免許事情について軽く解説しよう。四輪が車体によって「普通・中型・大型」と分類されるのに対し、二輪のほうはエンジンの排気量に応じて「原付・小型二輪・普通二輪・大型二輪」と分類される。

原付

  50cc以下。四輪の普通免許をとると勝手についてくるので大抵の人は持っている。昔は原子炉付二輪車の略だと思っていたが実際は原動機付自転車である。法定速度 30km/h までという事になってる。市街地を走ってるバイクらしきものはだいたい原付である。

小型二輪

  125cc以下。原付二種ともいうらしい。正確には普通二輪の小型限定なのだが正確に言う必要はあるまい。二人乗りもできる。高速には乗れない。ナンバープレートが黄色もしくはピンクのやつ。

普通二輪

  400cc以下。高速に乗れる。普通「バイクの免許をとる」と言ったらこれを指す。教習所で見た人は僕以外全員普通二輪だった。「なんだあいつは、小型ATなんてみみっちいものに乗りおって」と思われていたに違いない。

大型二輪

  それ以上。はた目にもギョッとするほど巨大なバイクに乗れる。たぶんガイド用の人工知能とか大陸間弾道ミサイルを地上から撃墜できる弾体加速装置4000XLとか搭載している。

この他にさらに「AT限定」というのがあるが、小型二輪に関して言えばマニュアル車はほとんど見ないのでAT限定でほとんど問題ないと思う。小型二輪は通勤など実用目的で買う人が多いので四輪と同じく簡単さが求められるのだろう。普通二輪以上になると趣味性が強いためMT車をいっぱい見る。

というわけで免許をとったので、最寄りのレンタルバイク屋に行って125ccのスクーターに乗ってぐるっと回ってみた。8時間レンタルで300kmほど走った。300kmというのは千葉市以南の房総半島をぐるっと回るくらいの距離である。6200円(保険こみ)だったので、月1でちょっとしたツーリングに出かける程度ならたぶんレンタルだけで済むと思う。ちなみにガソリン代は500円くらいだった。

めでたく足がひとつ増えたので、日本列島のまだ行けてない部分に行こうと思う。

聖書趣味ついて

ハンドルネームで分かると思うが僕はキリスト教徒である。少なくとも信仰について聞かれる機会があったらそう答えている。僕は祝日に日章旗を掲げたりしないけれど日本人だし、「父母を敬え」「偽ってはならない」といった十戒をろくに守ってないけどキリスト教徒だ。

小学生のころは日曜のたびに教会に通っていて低年齢向けにアレンジされた聖書を読んでいた。当時からダーウィン進化論というものは知っていたが、それが聖書の教える創造論と矛盾している事を気にしたことは無かった。

なぜ気にしないのかと言えば、別に聖書の記述がフィクションだと見抜いていた訳ではなく、子供はその程度の矛盾は受け入れられる仕様になっているからだ。学校で「かめはめ波」や「アバンストラッシュ」の練習をした子供は山ほどいても、ドラゴンボールダイの大冒険の世界観が矛盾しているとジャンプ編集部に文句を言う子供はいなかった。たいていの人間はいくつもの世界観を同居させられる程度には脳に余裕がある。

そんな僕も小学校高学年くらいになると「聖書はただの作り事だ」と思うようになり(いわゆる反抗期)、中学生くらいでイスラエルという民族が実在すると知って驚き、最終的には「実話をもとにしたフィクション」くらいの地位に落ち着いた。が、それによりむしろ聖書の面白さを理解できるようになった。聖書の記述を追っていくと、人間がこの世界の成り立ちや偉大な人物をどのように描いてきたのかを理解することが出来る。

たとえば新約聖書には「福音書」という文書が4編収録されている(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)。4編ともイエスの生涯と言行録なのだが、内容が執筆時代とともに少しずつ変化している。これは教会の権威確立にともなって、教会の基礎である使徒がちょっとずつ偉く書かれるようになったからと言われる。そういう極めて人間的な事情が多分に含まれているのだ。

そもそも、パレスチナの平凡な家庭に生まれながら2000年にわたって世界史に決定的な影響を与えているイエスという男は一体何者だったのか、全く興味を持たずにいられる人間はそうそう居ないだろう。遠藤周作などは自分なりのイエス観を作家としてのメインテーマに据えている。

ところで日本人の信仰心というのは世界的に特殊だと主張する日本人は結構いるけれどこれは嘘だと思っている。僕がキリスト教徒を名乗っているのに聖書をろくに守らないのは日本人の特殊性では全く無い。欧米でも聖書を文字通りに守るひとは fundamendalist (根本主義者) と呼ばれて別枠に置かれている。「聖書の教えを1年間忠実に守ってみた」という話が書籍として売れる程度には、みんな聖書を守っていない。

聖書男(バイブルマン)  現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

聖書男(バイブルマン) 現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

 

 

日記についての日記

何でもコツコツ続けると良いことがあるらしい。僕はここ5年 Twitter 界隈に入り浸っているおかげで色々なスキルを覚えた。

まず研究室で快適に Twitter をするために Google 検索画面そっくりの Twitter クライアント というのを作り、これのお陰で PythonJavaScript と nginx の使い方を覚えた。ここで得た技術をもとに 人を馬鹿にしたブロックくずし を作って各種ネットメディアで取り上げられたり、日々投稿しているネタツイートをもとに 横浜駅が自己増殖して日本を覆い尽くす未来小説 を書いて小説投稿サイトカクヨムで週間総合1位をとったりした。詳しくは書かないけれど結構な金銭も得ている。

そうこうしているうちに Twitter のフォロワーがだいぶ増えて「あいつはアルファツイッタラーだ」と呼ばれるようになった。ろくに本業をせずにツイートばかりしているという侮蔑的な意味も多分に含まれているのだと思う。本業をおろそかにしているのは事実なので反論のしようもないが、正直なところ本業よりも上述のようなよくわからない諸々を作っているほうが生産性が高いような気がする。

ただインターネット世界というところも細分化が進んでおり、僕の所属している界隈では水素水の科学的根拠の無さがごく常識的に知られているのに Google で検索してみると肯定的な記事ばかり出てくるので自分が狭い世界に閉じこもっているということはしばしば思い知らされる。というわけで活動範囲を拡張するためにブログをコツコツ書くべきではないかと最近思っている。だからこんなどうでもいい記事を書いている。思いついた文字をだらだら並べた記事をたくさん書けばそのうち遺伝的アルゴリズムによって良い記事の書き方を徐々に体得できるのだろう。

ところでブログ界隈というところは遠巻きに見ていると自己言及性が高すぎるように思える。つまりブログでブログ論ばっかり書いてる。「ブログで金儲けする方法」とか「ブログで金儲けする方法ばかり語られる近年のブログ界隈の問題」とか「ブログで金儲けする方法を主張する自由」とかいう感じのがソーシャルブックマークの上位にやたら見られる。もちろん能動的に自分の見たいものを探しに行けばそんなことはないんだろうけれど僕はいまのところ遠巻きなのでそういう印象を持っている。かくいうこの記事もブログについてのブログである。インターネットはそのうちいくつかの自己言及の渦に落ち込んでいき互いが言語レベルで通じなくなるんじゃないかと不安になってくる。そういう意味もこめてなるべく隣の渦にちょいちょい顔を出してみようと思う。

ちなみに上述した小説投稿サイトカクヨムも最初の1ヶ月くらいはランキング攻略法とかサイト運営批判とか僕の私の創作論とかいった小説でないものを書く人がいっぱいいたので外部から見たら相当寒い状況だったと思う。このへんは双方向メディアの宿命的な問題というものだろう。マスコミとかは逆にもう少しジャーナリズム論を語ったほうがいい。

移動趣味者というもの

このブログは1ヶ月以上更新しなくても「この広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されます」という広告が出ないらしい。素晴らしい。しかし Twitter ばかり書いてブログに何も書かないと本格的に長文が書けない人間になってしまうので何かを書く。ネタが思いつかないのでお題スロットというのを回す。

お題「好きな乗り物」

小学生か。

好きな乗り物について書くというのは結構難しい。というのは僕は乗り物といえるものがほぼ全て好きだからだ。自転車も好きだし自動車も好きだ。電車も好きだし新幹線も好きだし船も飛行機も好きだしバイクも好きだ。というか徒歩も好きだ。

一方で、こういった乗り物のメカニックに対する興味はそんなに強くない。電気系統とかエンジンとかいったものには詳しくない。僕はキーボードを叩くのは好きだがドライバーやレンチを回すのは好きじゃない。要するに僕は「移動」が好きなのであり、その手段として乗り物が好きなのである。

大学時代は家賃の安さを理由に僻地に住んでおり、大学まで自転車で40分かけて通学していた。友人たちは「あの場所から自転車で通うなんて正気じゃない」「授業に出ても疲れて寝てしまうだろう」と言っていたが全くそんなことは無かった。むしろ走っている最中の方が頭が冴えた。授業中に解けなかった数学の課題の解法が、帰り道にサドルの上で閃くということは日常茶飯事だった。

おかげで大学院に進学して通学時間が15分になると明らかに頭脳のパフォーマンスが落ちた。これではまずいと思い、次の住所ではまた大学から遠い場所をわざわざ選んで通った。

今でも重要なことを思いつくのはだいたい自転車の上だ。アリストテレスは学園を歩き回りながら授業を行ったことから彼の一派を「逍遙学派」と呼ぶことがあるが、おそらく彼も僕と似たような体質だったに違いない。 

移動趣味者なので当然ながら旅行は好きだ。移動自体が目的なのでなるべく遅い移動手段で地理構造を体に覚え込ませるような移動が望ましいが、時間が有限なので遠くに行きたい場合は飛行機や新幹線も必要だ。

さて、不況が続くと観光のようなレジャー産業はまず真っ先に苦戦するところであろう。旅行雑誌るるぶは「見る・食べる・遊ぶ」の略ということだが、こうも交通や情報のネットワークが発達すると、見たり食べたり遊ぶためにわざわざ現地に行く必要性がどんどん下がっていく。一方で「移動趣味者」というのは本当に移動そのもの、地理的構造の把握が目的であるため、この現代バーチャル社会において取り入れるべき層なのではないだろうか。旅行の魅力というのは現地の魅力だけではなく、経路の魅力でもあるのだ。

などと言ってみたが、移動趣味者は本当に移動しかしないので現地に行っても大して地元に金を落とさず帰ってしまうので儲かるのはJR各社くらいだし、だいたい「取り入れる」といっても何もすることが無い。そこに道があるから行くだけなのだ。

小説新人賞に対するひとつの提案

現在、小説投稿サイト「カクヨム」では第1回Web小説コンテストというものが行われている。約1ヶ月の「読者選考期間」を経て上位に入った作品から編集部の「最終選考」で受賞作を選ぶシステムである。

読者選考期間は4月7日までなのであと4日で終わるわけだが、ここにきてある応募者の選考システムへの要望が話題となっている。

kakuyomu.jp

要約すると「読者選考は相互評価などによる不正が蔓延していて純粋な読者が少ないのでシステムとして破綻している」という主張である。このランキング不正の訴えに多くの共感レビューがついて、週間ランキング「エッセイ・ノンフィクション」部門で本日の1位にランクインしている。おめでとう。

わざわざ最初から「読者選考でやります」と大々的に宣伝してる賞に応募してから「読者選考は不当だ」と言い出してる人が結構いるらしい。僕がざっと読んだ限りではランキング上位の作品は概ね面白いし、仮に何作かが不正でランキングを上がってきても編集部が最終選考で弾けば何も問題ない気がするが。

しかし彼らとしても数ヶ月準備してきたであろう長編小説が全く読まれず評価されないとなると感情的に許容できないだろう。そこで僕なりに「こういう人のための小説新人賞」を考えてみた。

まず「全部の作品を精読してほしい」というのが要望らしいが、一般的な新人賞でも全作品を精読しているとは到底思えない。何百もの応募作から「受賞に足る作品」を選ぶだけなのだから、ざっと見て面白くないと分かる作品はすぐ弾かれていると判断すべきだろう。給料の出る下読みがやってるからこそ、その程度の効率化は当然だ。

そこで本コンテストは読者に委ねているわけだが、読者はボランティアなのでタイトルや紹介文をパッと見て面白そうな作品しか読まない。従って「一見退屈だが、きちんと読んでくれれば面白いと分かる!」と思ってるあなたの作品は読まれない。

ここでの問題は要するに「読み手の人件費が足りない」「応募作が多すぎる」ことだ。これを一挙に解決する方法は「応募者から参加費を徴収すること」である。これにより

  • 応募作品数が減る
  • 金を払う程度の自信作しか応募されないので、平均的な質の向上が期待される
  • 参加費を審査の人件費に回せる
  • よって各作品が精読される

となる。おお、こんな良いアイデアをなぜ誰もやらない? と思ってたらやってる人がいた。

www.boiledeggs.com

参加費は7000円。原稿用紙200枚から500枚なので6万〜20万字程度の長編か。1名の審査員が応募作すべてに目を通し受賞作を選び、それを10社の出版社が入札により書籍化するというシステムらしい。

年に1〜2回開催されていて、過去の応募作を見てみると概ね50〜100作ほど。毎回数作には詳細なコメントが添えられているので、概ね精読されていると考えていいのだろう。というわけで、冒頭の記事に賛同されている方は、こういうタイプの賞に応募してみるのは如何だろうか。ライトノベル的な傾向の強いWeb小説とはだいぶ方向性が違う気がするが、カクヨムにもどう見てもラノベでない何かを上位にぶちこんでる人は多い。書く側にも読む側にもそのくらいの鷹揚さはあっていい。

要するに、運営側が賞の方針を選べる程度には応募者も賞を選べるのだから、根本的な賞のあり方に文句を言うより自分に合った賞を探すほうがよほど効率的である。