1400字制限

最近の記事のほとんどが1400字を超えているのでタイトル無視も甚だしいが1400字「以下」に制限するとは言っていない

「地元ネタ」に関する私論 なぜ埼玉が最強なのか

カドカワBOOKSから『横浜駅SF』という小説を発売して20日ほどが過ぎた。横浜市を中心に極めて地理的に偏ったヒットを飛ばし、一部書店(有隣堂とか)ではハリー・ポッターの新刊を超える売れ行きを記録し、その週のうちに緊急重版が決まった。

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

 

 これはいわば「地元ネタ小説」である。「横浜駅の改築工事が終わらない」という地元で有名な話をネタに、「改築を繰り返す横浜駅がついに自己増殖の能力を獲得し、本州を覆い尽くした未来の日本」を舞台にしたSF小説だ。物語の舞台は横浜市内というわけではなく、むしろ山梨とか長野とか北海道とか九州とか四国、要するに日本全国である。

私はべつに横浜市に特別縁があるわけではない。ただ旅行が趣味で、全国各地の「地元ネタ」を収集するのを人生の喜びとしている。本作はそのような著者の趣味の集大成を「横浜駅」を起点として語ったものである。

ところで「地元ネタ」と言えば魔夜峰央の『翔んで埼玉』が有名である。この作品自体は1982年の初出であるにもかかわらず、近年SNSで話題になり、単行本化されたものだ。

このような「地元ネタ」が注目されるようになったのは、インターネットの普及により嗜好の多様化により、消費者が個別化されたコンテンツを求めるようになった結果と言えるだろう。インターネット時代は地元ネタ時代である。「国民的ヒット」が望めない時代になったので、県民的ヒット、市民的ヒットといった小さい範囲を狙って着実に売上を出す戦略が有効になったというわけだ。

ただ地元ネタならなんでも良いというわけではない。地元ネタというのは必然的に読者を限定するため、商売でやる以上は「市場規模」と「地元意識」の兼ね合いを常に計算しなければならない。

たとえば「東京○○」というタイトルを見て「地元だ!」と思う東京都民はほとんどいない。「吉祥寺○○」「高円寺○○」といった特定地域に絞れば「地元だ!」と思われるだろうが、今度は人口が小さすぎて厳しい。「地元意識 × 人口」の積が最大になる地域はどこか、という問題になる。

この「地元意識」というのは主に「全国的知名度に対する自意識」で決まると言っていいだろう。東京都民1300万人の殆どは「東京のことは誰もが知っているだろう」と思っているため、たいへん地元意識が弱い。一方、埼玉県民700万人の殆どは「埼玉のことは誰も興味がないだろう」と思っているので地元意識が強い。地元ネタ業界で「困った時の埼玉」と言われる所以である。

では「横浜」はどうだろう。横浜市は人口300万人を超え、人口規模としては十分である。しかし問題は「地元意識」である。大抵の日本人は「横浜」というとテレビドラマでよく使われるみなとみらい周辺、海の見えるオシャレな地域を想像する。それは横浜市民も承知しているため、単に「横浜」といってもいまいち「地元感」が生じない。そういう意味で横浜は「埼玉」より「東京」に近く、地元ネタ商法に不向きの地域といえる。

そこで「横浜駅」である。「駅」の1文字を付けることで視点が内陸部に移り、「全国的知名度のあるベイエリア」の印象を払拭し、一気に「地元感」がだだ上がりするのである。このレトリックで横浜市内で圧倒的な売れ行きを出した、と自己分析している。問題はここからどうやって「翔んで埼玉」なみの全国的売上を出すかという事であるが、それはまた思いついてから。

 

 

コミカライズもやってるよ

横浜駅SF 書籍版が出るよ

Web小説投稿サイト「カクヨム」で連載していた拙作『横浜駅SF』が、12月24日にカドカワBOOKSから刊行します。よろしく。

 

【書影】

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【特設サイト】

各種情報が載っています。独自ドメインです(サブドメインだけど)。書評家の大森望先生と、SF作家の藤井太洋先生から推薦コメントをいただきました。ありがとうございます。

yokohamaekisf.kadokawa.co.jp

 

【あらすじ】

絶え間ない改築の続く横浜駅がついに自己増殖の能力を獲得し、膨張を開始して数百年後の日本。本州の99%は横浜駅で覆われ、Suika を所有する人間が住み自動改札による徹底した監視下にあるエキナカの社会と、それ以外の僅かな土地に追いやられた人間の社会に分けられていた……

 

【Web版との違い】

カクヨム版の「本編」9万字から加筆して15万字になりました。7割増しです。全体的に加筆していますが、4章(四国編)はまるごと新稿です。あと田中達之先生のイラストと、色々な設定資料(地図とか)。

 

【印刷書籍版】

1200円+税。文庫版ではなく四六判なので結構大きいです。書店ではライトノベルの棚ではなく、一般文芸(芥川賞とか置いてあるところ)の近くにあることも多いみたいです。

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文庫版よりだいぶ大きく、新書版よりもさらに一回り大きいです。

 

電子書籍版】

同時発売です。値段一緒です。

 

【店舗限定特典】

一部店舗で購入すると店舗限定特典のSSペーパーがつきます。2〜3ページの小話です。先着順なのでご了承下さい。

 

とらのあな名古屋駅SF ユニモール地下要塞と第七号巨大ヒト型兵器」

本編から300年前の、横浜駅増殖以前を描いたスピンオフです。

 

ゲーマーズ『仙台駅SF 和やかな車内に、穏やかな終末を」

本編から100年前の、横浜駅増殖途中を描いたスピンオフです。

 

メロンブックスつくば駅SF 秋葉原から仮想世界への接続体験 ― Tsukuba Experience ―』

本編と全く関係ないネタです。

 

あとアニメイトCOMIC ZIN などで何かグッズ的なものが貰えるアレがあります。詳しくはこちら。

yokohamaekisf.kadokawa.co.jp

 

スタンプラリー

横浜市内の各地を歩いてスタンプを集めると景品(クリアファイルとか横浜ビールとか)がもらえます。発売日(12月24日)から1月末までやってます。

 

【コミカライズ版】

12月27日から「ヤングエースUP」で本作のコミカライズ版連載がはじまります。

 

【アニメ化はするの?】

「テレビ1クールやるには原作3冊は欲しい」って偉い人が言ってました。

 

その他

横浜駅(実在)の市営地下鉄付近のサイネージで広告が出てます。

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 「現実 vs 虚構」って感じだ。

 

【所感】

Twitter上のネタで始めたのが話が大きくなってしまい「こち亀」の15ページ目みたいな気分です。

 

【今後の作家活動】

2作目の情報が印刷書籍版の巻末にあります。(電子版にはあるのかな。「あとがき」には書いています)

 

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

 

 

フィクションの科学的正当性について

先日「シン・ゴジラ」を見てきたので、生物学的な観点からゴジラについてコメントしたい。作中でゴジラのゲノムサイズはヒトの8倍という事から「ゴジラがこの星でもっとも進化した生物である」といった発言があるが、ゲノムサイズというのは別に進化の度合いとは関係ないのでこの発言は間違いである。そもそも進化に大小関係のようなものは無いので「この生物はあの生物より進化している」といった概念は基本的に存在しない。たとえばコムギのゲノムサイズはヒトの6倍くらいあるが、自分が焼きたてのパンよりも劣った存在であると認められる人間はどれほどるだろうか。また作中で「シーケンスだけで何年かかるか」と言っているが、現在DNAシーケンサというのはムーアの法則を超える勢いで進化しているため

……といった事を書こうと思ったのだが、そういう話はもっと専門に近い人がやるべきなので止める。それよりも少々メタな話をする。こういう風にフィクション作品の科学的部分について言及すると

ゴジラの存在自体が荒唐無稽なのに、細かい部分に科学的正当性を求める意味があるの?」

という言い出す人がかならず現れるので、これについてコメントしたい。

この反論は簡単だ。フィクションというのは別に「虚構であること自体」を楽しむものではない。楽しいから虚構を容認するのである。よって嘘は最小限でなければならない。よって科学的正確さが必要である。以上。

こんな事は物語の消費者にとって当たり前の事で、みんな頭では理解しているだろう。しかし、自分の好きな作品に変なオッサン(オバサンかもしれない)が「科学的正当性が〜」などといって作品を批判するのを見ると、やっかみたくなるのが人情というものだろう。

しかし、ここに重大な誤解がある。科学の専門家がSF作品の科学考証について言及する場合、それが「作品批判」である事はほぼ無い。では何なのかというと「自分の専門について言及する数少ない機会だから言及している」のである。

科学の専門家というのは往々にして「不可解なもの」の象徴として扱われる。家族友人にも自分の仕事について全く理解してもらえず「なんか大学で座禅組んで宇宙と一体化しようとしてる人」などと思われている。たとえノーベル賞を受賞しても人柄と卒業文集ばかりが報道されて、ろくに研究内容が理解されない。

こういう立場の人達が、世間で話題の映画と自分の専門内容をからめて喋る機会があったら、それを黙って見過ごせというのはあまりに酷だ、というか不可能だ。作品の良し悪しを言及しているのではない。自分が喋ることがあるから喋っているのだ。

……もちろん中には本当に科学的正当性を作品評価とダイレクトに結びつける人がいるかもしれないが、そういうタイプの人はそもそもフィクションに向いていないので、映画館に足を運ぶことはあまり無いと思う。

尚、ここに書いたのは「科学の専門家」の話である。フィクション作品の科学的正当性について言及する人種は他に「SFマニア」というのがいるが、この層は僕とあまり絡みが無いので不用意な言及を控えたい。

ホイップクリームをボウルいっぱい食べる事と、小説を書く事

このまえ小学校の卒業アルバムを見ていたら「将来は小説家になりたい」と書いてあって、そうか僕は小説家になりたかったのか、ということを思い出した。

先月「横浜駅SF」の書籍化が決まったので、これで小学生時代の夢は叶ったことになる。ちなみに中学時代の夢は「作曲家」で高校時代は「研究者」なので、3つの夢のうち2つは叶ったわけだ。なかなか悪くないスコアだ。

ところで、将来の夢というのは暗黙的に「職業」を書くものと決まっている。子供なのだから「ホイップクリームをボウルいっぱい食べたい」とかいうことを書いてもいい気がするのだが、そういうのを書くと先生に訂正を求められる。学校教師というのは基本的に公務員であり、つまり国家の走狗となっていたいけな子どもたちを管理教育し将来の納税者に育て上げるのが仕事なので仕方ない。

僕は空気の読める子供だったので小中高とちゃんと職業らしい夢を書いてきた訳だけれど、いまから考えてみると子供時代の僕が「職業」だと思ってきたものの多くがどんどん職業として成立しなくなってきている気がする。小説家なんてのもその例だ。ただ、こういう事実が必要以上にネガティブに取られているように感じる。

ネットでよく「デビューした小説家のうち10年後に生き残れるのは何割」とかいう話を聞くんだけれど、多分これは「生き残る」という問題設定自体が間違ってる。この「デビューした小説家」の中には、職業として小説家になろうと思ったのではなく、趣味で書いたものが上手いこと商業化してしまった(でも長くやるつもりは無い)という人が山ほどいるはずだ。

僕自身「横浜駅」を書いたのは完全に趣味だが、とりあえず貰えることが確定している賞金(100万円)と初版部数印税(まだ決まってないけど概算は出来る)を計算してみると、学生時代にやった在宅バイトよりもかなり割が良い。職業だと考えるとポスドク以上に先行き不安なので悲観的にもなるが、僕は単に人生のボーナスだと捉えている(割がいいので今後も書くつもりだが)。

そもそも小説執筆というのは、経験がものを言う作業とは思えない。漫画家ならたいてい連載を経て画力が向上するけど、小説家の文章力というものが経験で向上する例を僕はあまり知らないし、むしろデビュー作が最高傑作と言われる作家は山ほど知っている。他の職業で得た専門知識で小説を書く人もいる。本来的に副業向けの営みと言えよう。

実際、この国には紫式部から数えても1000年の小説の歴史があるわけだが、その頃は小説なんて宮中の貴族しか読めず、職業にはなりえなかった。専業の文筆家なるものが成立したのは江戸中期の十返舎一九の頃からで、せいぜい200年くらいだ。おそらく人口増加と識字率の向上により「小説が読める人」が増えたせいだろう。

しかし、さらに教育が普及すれば今度は「小説が書ける人」もどんどん増える。こうなると山ほどいる潜在的作家の中から実力者を探す手間が生じるが、ネットのお陰でそれもだいぶ軽減される。こうなれば一人あたりの儲けが減って、職業でなくなるのも当然だ。

こういうのは経済動向とか出版社の営業努力とは全く別の次元の問題である。ホイップクリームをボウルいっぱい食べることが職業になる時代が人類史上一度も無かったように、世の中の大抵のものは職業として成立する時代がそう長くないのである。

 

小型二輪AT限定免許をとった

先日いろいろあってバイクの免許をとった。「小型二輪AT限定」という極めてみみっちい免許だ。

以前書いたように僕は移動趣味者(観光地を点として巡回する旅行ではなく移動そのものを趣味とする人種)なので、移動手段のひとつとしてバイクには以前から興味を持っていたが、四輪免許取得にかなり苦労したのでいまさら教習所に行くのも億劫だと思っていた。

しかし実際に行ってみると、四輪を既に持っているなら二輪はわりと簡単で、小型二輪であればさらに簡単で、AT限定ともなればもはや「歯医者行って親知らずを抜くほうが大変」というレベルだった。教習9時間プラス実技試験(学科試験なし)で、教習所に6回くらい行ってそのあと免許センターに行ったらあっさり取れた。費用は7万円ほど。

バイク趣味者であれば小型二輪AT限定などバイクとして認めないかもしれぬが、僕はバイク趣味者ではなく移動趣味者であり、移動趣味者というのは移動の風情を失わせる高速道路というものをとかく軽蔑しておるので、下道を車同然に走れる小型二輪があれば十分目的に足りるのである。あと被災地とかで結構活躍するという話を聞く。

さて、ここで我が国の自動車免許事情について軽く解説しよう。四輪が車体によって「普通・中型・大型」と分類されるのに対し、二輪のほうはエンジンの排気量に応じて「原付・小型二輪・普通二輪・大型二輪」と分類される。

原付

  50cc以下。四輪の普通免許をとると勝手についてくるので大抵の人は持っている。昔は原子炉付二輪車の略だと思っていたが実際は原動機付自転車である。法定速度 30km/h までという事になってる。市街地を走ってるバイクらしきものはだいたい原付である。

小型二輪

  125cc以下。原付二種ともいうらしい。正確には普通二輪の小型限定なのだが正確に言う必要はあるまい。二人乗りもできる。高速には乗れない。ナンバープレートが黄色もしくはピンクのやつ。

普通二輪

  400cc以下。高速に乗れる。普通「バイクの免許をとる」と言ったらこれを指す。教習所で見た人は僕以外全員普通二輪だった。「なんだあいつは、小型ATなんてみみっちいものに乗りおって」と思われていたに違いない。

大型二輪

  それ以上。はた目にもギョッとするほど巨大なバイクに乗れる。たぶんガイド用の人工知能とか大陸間弾道ミサイルを地上から撃墜できる弾体加速装置4000XLとか搭載している。

この他にさらに「AT限定」というのがあるが、小型二輪に関して言えばマニュアル車はほとんど見ないのでAT限定でほとんど問題ないと思う。小型二輪は通勤など実用目的で買う人が多いので四輪と同じく簡単さが求められるのだろう。普通二輪以上になると趣味性が強いためMT車をいっぱい見る。

というわけで免許をとったので、最寄りのレンタルバイク屋に行って125ccのスクーターに乗ってぐるっと回ってみた。8時間レンタルで300kmほど走った。300kmというのは千葉市以南の房総半島をぐるっと回るくらいの距離である。6200円(保険こみ)だったので、月1でちょっとしたツーリングに出かける程度ならたぶんレンタルだけで済むと思う。ちなみにガソリン代は500円くらいだった。

めでたく足がひとつ増えたので、日本列島のまだ行けてない部分に行こうと思う。

聖書趣味ついて

ハンドルネームで分かると思うが僕はキリスト教徒である。少なくとも信仰について聞かれる機会があったらそう答えている。僕は祝日に日章旗を掲げたりしないけれど日本人だし、「父母を敬え」「偽ってはならない」といった十戒をろくに守ってないけどキリスト教徒だ。

小学生のころは日曜のたびに教会に通っていて低年齢向けにアレンジされた聖書を読んでいた。当時からダーウィン進化論というものは知っていたが、それが聖書の教える創造論と矛盾している事を気にしたことは無かった。

なぜ気にしないのかと言えば、別に聖書の記述がフィクションだと見抜いていた訳ではなく、子供はその程度の矛盾は受け入れられる仕様になっているからだ。学校で「かめはめ波」や「アバンストラッシュ」の練習をした子供は山ほどいても、ドラゴンボールダイの大冒険の世界観が矛盾しているとジャンプ編集部に文句を言う子供はいなかった。たいていの人間はいくつもの世界観を同居させられる程度には脳に余裕がある。

そんな僕も小学校高学年くらいになると「聖書はただの作り事だ」と思うようになり(いわゆる反抗期)、中学生くらいでイスラエルという民族が実在すると知って驚き、最終的には「実話をもとにしたフィクション」くらいの地位に落ち着いた。が、それによりむしろ聖書の面白さを理解できるようになった。聖書の記述を追っていくと、人間がこの世界の成り立ちや偉大な人物をどのように描いてきたのかを理解することが出来る。

たとえば新約聖書には「福音書」という文書が4編収録されている(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)。4編ともイエスの生涯と言行録なのだが、内容が執筆時代とともに少しずつ変化している。これは教会の権威確立にともなって、教会の基礎である使徒がちょっとずつ偉く書かれるようになったからと言われる。そういう極めて人間的な事情が多分に含まれているのだ。

そもそも、パレスチナの平凡な家庭に生まれながら2000年にわたって世界史に決定的な影響を与えているイエスという男は一体何者だったのか、全く興味を持たずにいられる人間はそうそう居ないだろう。遠藤周作などは自分なりのイエス観を作家としてのメインテーマに据えている。

ところで日本人の信仰心というのは世界的に特殊だと主張する日本人は結構いるけれどこれは嘘だと思っている。僕がキリスト教徒を名乗っているのに聖書をろくに守らないのは日本人の特殊性では全く無い。欧米でも聖書を文字通りに守るひとは fundamendalist (根本主義者) と呼ばれて別枠に置かれている。「聖書の教えを1年間忠実に守ってみた」という話が書籍として売れる程度には、みんな聖書を守っていない。

聖書男(バイブルマン)  現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

聖書男(バイブルマン) 現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

 

 

日記についての日記

何でもコツコツ続けると良いことがあるらしい。僕はここ5年 Twitter 界隈に入り浸っているおかげで色々なスキルを覚えた。

まず研究室で快適に Twitter をするために Google 検索画面そっくりの Twitter クライアント というのを作り、これのお陰で PythonJavaScript と nginx の使い方を覚えた。ここで得た技術をもとに 人を馬鹿にしたブロックくずし を作って各種ネットメディアで取り上げられたり、日々投稿しているネタツイートをもとに 横浜駅が自己増殖して日本を覆い尽くす未来小説 を書いて小説投稿サイトカクヨムで週間総合1位をとったりした。詳しくは書かないけれど結構な金銭も得ている。

そうこうしているうちに Twitter のフォロワーがだいぶ増えて「あいつはアルファツイッタラーだ」と呼ばれるようになった。ろくに本業をせずにツイートばかりしているという侮蔑的な意味も多分に含まれているのだと思う。本業をおろそかにしているのは事実なので反論のしようもないが、正直なところ本業よりも上述のようなよくわからない諸々を作っているほうが生産性が高いような気がする。

ただインターネット世界というところも細分化が進んでおり、僕の所属している界隈では水素水の科学的根拠の無さがごく常識的に知られているのに Google で検索してみると肯定的な記事ばかり出てくるので自分が狭い世界に閉じこもっているということはしばしば思い知らされる。というわけで活動範囲を拡張するためにブログをコツコツ書くべきではないかと最近思っている。だからこんなどうでもいい記事を書いている。思いついた文字をだらだら並べた記事をたくさん書けばそのうち遺伝的アルゴリズムによって良い記事の書き方を徐々に体得できるのだろう。

ところでブログ界隈というところは遠巻きに見ていると自己言及性が高すぎるように思える。つまりブログでブログ論ばっかり書いてる。「ブログで金儲けする方法」とか「ブログで金儲けする方法ばかり語られる近年のブログ界隈の問題」とか「ブログで金儲けする方法を主張する自由」とかいう感じのがソーシャルブックマークの上位にやたら見られる。もちろん能動的に自分の見たいものを探しに行けばそんなことはないんだろうけれど僕はいまのところ遠巻きなのでそういう印象を持っている。かくいうこの記事もブログについてのブログである。インターネットはそのうちいくつかの自己言及の渦に落ち込んでいき互いが言語レベルで通じなくなるんじゃないかと不安になってくる。そういう意味もこめてなるべく隣の渦にちょいちょい顔を出してみようと思う。

ちなみに上述した小説投稿サイトカクヨムも最初の1ヶ月くらいはランキング攻略法とかサイト運営批判とか僕の私の創作論とかいった小説でないものを書く人がいっぱいいたので外部から見たら相当寒い状況だったと思う。このへんは双方向メディアの宿命的な問題というものだろう。マスコミとかは逆にもう少しジャーナリズム論を語ったほうがいい。