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「その情報量は Twitter のなんと10倍... つまり人類はすべて平等に無価値ということだ」

「ツッコミ不在のお笑い」としてのSF

SFの本質についての話をしたいと思います。嘘です。わざわざ火薬庫でタバコを吸うような真似はしません。少しマイルドにして、私がSF小説を書くときの指針について話したいと思います。ひとことで言うならばそれは「ツッコミ不在」です。

私は福島県生まれで、幼少期より大量の納豆を食べて育ったので、大阪人とは話が合いません。嘘です。そんなエビデンスは無い。とにかく、大阪には漫才文化があります。相手が何かしらおかしい事、つまりボケを言って、それに「なんでやねん」とツッコミを入れる、そういうコミュニケーションの形態があるわけです。

そこに私のようにやたらと込み入ったボケをする人間がいると「どう突っ込んでええのかわからん」と苦情を言われます。でも私は別にツッコミがほしいわけではなく、もっと言えばコミュニケーションをしたい訳でもないのです。ただ思いついた事を喋っているだけなのです。人として問題がある気がしますが、その話は脇に置きます。

お笑いにおけるツッコミの役割は、言うなれば「識別」です。「こいつの話はこの点がおかしい。つまりここは笑うところですよ」という事を観客に示すわけです。しかし私はどうもその形態が肌に合わない。笑うか笑わないかは、観客が勝手に決めていいのではないか? と思います。とはいえ私がひとりで変なタイミングで笑ったりすると場が白けてしまうので、観劇の場においてはやはりツッコミという誘導係が必要なのです。

さて、フィクション世界でも「ツッコミ役」というのは存在します。ボケ役の登場人物が何かおかしな言動をして「それはおかしいだろ」と言う係。「すごいよ!マサルさん」におけるフーミンです。

しかし正直なところ、私はこの「ツッコミ役」というのがどうも好きになれないのです。漫才ならともかくフィクション世界におけるボケ役は、どうも彼らなりの正当性あるいは論理に基づいて、真剣に行動しているように見えるのです。他人が真剣にやってるのに、なぜそれを「ボケ」とみなすのか。大阪のノリから言えば「ボケ」は別に悪口ではないのでしょうけれど、納豆ばかり食べて育った私にはどうもそれがピンと来ない。

これはいわば歴史モノにおける「現代人の代弁者」に似ています。幕末や太平洋戦争を扱ったドラマに、やたらと「藩同士で争っていないで日本がひとつにならねば」とか「この戦争は日本が負ける」とか物知り顔で言う人間がいたりします。確かに現代人の視点から見ればそうですし、感情移入のしやすいキャラクターなのですが、それを当時の人間が言っちゃダメでしょ、と思うわけです。

私がSFを書くときの指針がそれで、この世界にはとんでもなくおかしい物が出てきますが、それを作中のキャラクターが「おかしい」と言ってはいけない。感情移入させてはいけない。

徹底的にツッコミを排除して、おかしい人、おかしい出来事、おかしい世界をそのままに、ありのままに提示してほしい、と思うわけです。それが現実世界に住む人間からすれば、ものすごく笑えるコメディかもしれないし、ひどく陰湿な闇かもしれない。でも、彼ら自身はまったく真剣にやっているのだから、「こいつらはボケですよ」などと茶化さないでほしいのです。