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「その情報量は Twitter のなんと10倍... つまり人類はすべて平等に無価値ということだ」

白いキャンバスに鎖を描かないという行為

「最近良いニュースを聞かない」とあなたは思っているかもしれないが、そもそも世界に「良いニュース」がそうそうある訳がない。たいていの人間にとって「良さ」とは「平穏」のことであり、そして平穏はニュースではない。「良いニュース」が少ないのは、世界が悪い方向に向かっているからではなく、「良いニュース」という概念に若干の矛盾があるからだ。

もちろん革命を起こして世界を変革することが「良い」と思っているのであれば、世界のどこかで変革の火の手が挙がったことは「良いニュース」だろう。ただ、そういう人は世界にとって少数派だ。人間はおおむね保守的であり、幸福というのは慣れの問題である。もし良い知らせを見たければTVのニュースではなく道端に咲く花でも見ていたほうがいい。TVで開花予報を見るのもいい。

さて、このブログのトップが「首都大学東京女子医科歯科」のまま止まっているのも妙ので何か書こうと思うが、よく考えると僕はブログに書いて主張するべきことを何も持っていない。もちろん僕なりの政治思想というものはあるのだが、それを主張しようと思ったら何をすればいいのかが分からない。

たとえば「自由」を主張してみよう。ニューヨークの自由の女神像にはちぎれた鎖と足枷がついている。鎖は不自由の象徴であるから、ちぎれた鎖は自由の象徴になる。しかし本来の自由とは「鎖の不在」であるはずではないか?ちぎれた鎖をわざわざ描くのは、「不自由であった過去」に束縛されているのではないか?てなことを考えてしまう。

もし僕が画家で「自由を表現しよう」と思ったら、白いキャンバスをそのまま作品と称して「これは自由を描いているのです。自由とはつまり、鎖を描かないことなんです」とか言い出すだろう。ひねくれた前衛芸術愛好家にはウケるかもしれない。彼らは美術館にメガネを置くだけでも称賛するだろうけれど。

 

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「自由」(Yuba Isukari, 2019)

しかし何かしらの塩梅で、僕の死後にこの作品が後代に残ってしまったとしよう。「これは鎖の不在を描いたのだ」などという僕の言い訳は忘れられ、「自由」というタイトルだけが残ったとしてみる。鑑賞者はこんなことを言い出すかもしれない。「これは表現規制によって何も描けなくなった世界を描写しているのだ!」と。逆である。そういう事にならないうちに出来れば作品をサクッと忘れてほしい。

「主張する」という行為に関して、僕は万事こんなかんじである。他人に何かを伝達したいと思ったら、「自由は鎖をちぎることで表現するものですよ」といった世間の不自由なルールにある程度擦り寄らねばならない。めんどっちい! 鎖のない白紙を自分の頭の中にもっておけば十分である。

ところで僕はフィクション作家である。あれは何をしているのかと言えば、主張ではなく描写である。そこにあるものを描いているだけである。もちろんSF作品なので現実世界に存在しているわけではないのだが、それは僕の考える「そこにあるもの」と世間の考える「実在のもの」が違うだけである。鎖の不在みたいなものなので深く考えないでほしい。

もし僕の絵に「鎖につながれた犬」の描写があったとしたら、それは「犬の不自由」を表現したのではなく、単にそこに鎖があっただけである。意味は飼い主に聞いてくれ。