1400字制限

最近の記事のほとんどが1400字を超えているのでタイトル無視も甚だしいが1400字「以下」に制限するとは言っていない

暑さのあまりブラウン運動をする

import numpy as np 
import matplotlib.pyplot as plt
import matplotlib.animation as animation

series = np.array([[0,0]])

fig = plt.figure()
def plot(data):
        global series
        plt.cla()
        plt.axis('equal')
        step = np.random.randn(1,2)
        nextpos = series[-1] + step
        series = np.vstack((series, nextpos))
        im = plt.plot(series.T[0], series.T[1])

ani = animation.FuncAnimation(fig, plot, interval=100, frames=500)
#plt.show()
ani.save("output.gif", writer="imagemagick")

時速60キロで車が離れていく

◆人間はみんな巨大ロボに乗り込んで操縦したいという願望を持っている。「私はそんな事を思っていない」という人はまだ内なる声を自覚していないだけである。一度インターネットを切断し、素直な気持ちで本当の自分と向き合ってみてほしい。

◆とはいえこの不景気日本で巨大ロボを所有し操るのは少々難しい。ある程度の妥協はやむを得ない。巨大ロボに必要な要件がなにかと言えば、過去のロボットアニメを総合すると「飛ぶこと」「戦うこと」「人型であること」は必須ではなさそうだから省く。あとは当然ながら「巨大であること」という点があるが、日本語における巨大とはどの程度のサイズを指すのか。

◆『進撃の巨人』には確か3メートル級巨人というのがいた。単行本9巻で、まだ意識のある人間をそれより一回り大きいだけの巨人がクッチャクッチャと食っているシーンは超大型巨人よりも恐怖感があった。それはともかく、つまり日本の漫画・アニメファンには3メートルが巨大であるというコンセンサスが得られている事になる。これによって大抵の自動車は巨大ロボであるという結論が得られた。

◆2年前に小型二輪(125ccのバイク)を買ったのだが今は四輪車がほしい。高速道路に乗れない事にイライラしはじめた。人間の欲望は果てしない。小型二輪は自動車税が年額2400円であるが、自動車(軽ではない)は3万円するらしい。駐車場代その他の経費も小型二輪よりずっと高い。そんなものを所有してしまったら真面目に働かなくてはいけない。働きたくない。

◆「巨大ロボを操縦したい」と「働きたくない」は人間の二大欲求と言っても反論はそう多くあるまい。しかし現代社会において巨大ロボたる自動車の所有には、労働によって発生する金銭が必要となる。つまり二大欲求は相反する。なんてことだ。人間はその根本的欲求において既に矛盾を抱えているのか。

◆と思ったけど「トイレ行きたいけど布団出たくない」とかいう事もあるし、我々の欲求はわりとカジュアルに衝突する。 

◆ここで視点を変えてみよう。トイレに行きたいという人間の本当の望みは排泄であり、それは必ずしも施設としてのトイレを必要とするものではない。つまり布団のなかにそれなりの道具を用意すれば済む話である。同様に、巨大ロボに必要なのは労働ではなく金銭であるのだから、働かずに金が入ってくればそれで事足りるではないか。人類の抱える致命的な矛盾と思われていた事に、いま突破口が見えた。

◆だらだら書いたが本題に戻る。本題はなんだっけ。そうだ、4冊目の小説が出るという話をしていたんだった。していないか。今した。

未来職安

未来職安

 

◆少々まじめに内容を紹介する。

◆数年前に「東京都交通安全責任課」という短編小説を書いた。これは「未来の東京都庁で、自動運転車の事故が起きたときに、責任をとって辞めるためだけの人員を雇っている」という、いわゆる不条理お役所小説である。人間の労働が機械に代替されても、責任をとることは人間にしかできないだろう、というアイデアに基づいている。

◆「未来職安」はこのアイデアを拡張したもので、機械が発達した社会で、それでも人間にしかできない仕事を見つけ出してそれを紹介する「職安」の物語です。よろしく。

整数のない数学体系について

テッド・チャンの「あなたの人生の物語」は、物理認識が人間とまるで異なる宇宙人とのファースト・コンタクトを描いたSFである。我々が物理を各時刻に起きる相互作用として微分的に認識しているのに対し、本作に出てくるヘプタポッドなる生物は変分原理をベースとして積分的に(と言うべきだろうか)世界を認識している。

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 

(ちなみに映画化もされたが、こっちは物理認識のエッセンスが出てこないのでこの話とは関係ない。) 

というわけで僕も数学認識が人類とまったく違う生物を描いたSFを書いてみたいと思う。二番煎じもはなはだしいが、二番煎じでも十分に味があるのがテッド・チャンだ。

さしあたって思いついたのは、整数の認識が人類とまったく異なる生物についてのSFである。

 

たぶん我々人類はが最初の数として発見したのは整数である。棍棒持ってウホウホやっている原始人が「おれ、おまえ、みんな」くらいのプリミティブな認識を持ち、そこから「ひとつ、ふたつ、たくさん」という対象によらない抽象的な整数の概念を獲得する。

さらに、拾い集めた5個のリンゴを2人で分けるといった状況が生じて、分数と有理数を発見する。正方形や円形の建物を作ろうとして、平方根や円周率などの無理数を獲得する。ここまでは紀元前のうちに終わっていたらしい。

このあとインド人やアラビア人がゼロや負の数の概念を発見するわけだが、このあたりになってくると、「目の前にあるものの量を描写するためもの」というコンセプトが失われて抽象の世界に入ってくる。負の数はもともと負債を記述するために導入されたというが、負債という概念が既にかなり高度な抽象思考を必要とする。さらに代数方程式の解として虚数が導入されるわけだが、もはや名前からして虚構という感触が強い。

 

しかし、このような数の構築手順はどうも、われわれの住む地球の、もっと言えば地上世界の物理的な形態に依存しているような気がする。

たとえば深海の熱水噴出口で硫黄臭いガスがボコボコ出ている中で、それを酸化してエネルギーを得ている細菌たちが寄り集まって、群知能的なものを形成したとしてみよう。人間の脳も細胞の集まりなので似たようなものであるが、彼らは「個」の概念が人類よりもずっと曖昧で、勝手に融合したり分離したりする不定形な知性である。

彼らには数を数えるためのリンゴが存在しない。細菌なのでいちおう個数はあるのだが、群体のサイズに比べて個体が小さすぎて認識できない。人間が自分の細胞を数えられないのと同じだ。したがって相手のことを「何人」ではなく「何グラム」で認識する。こうして整数よりも先に実数が生まれる。

彼らには個数の概念が存在しないため、足し算や割り算のような二項演算を知らない。なにしろ「二項」の意味がわからないのだ。したがって、実数を変換する関数をベースにして数の認識を拡張していくと思われる。たとえば我々の考える足し算  x+y を彼らの言語に翻訳すると、「実数 x を関数 f_x(y)=x+y に対応付ける操作」といった、かなりめんどくさい形状になる。

そんな彼らが、周期的運動を考える段になって、つまりフーリエ変換的なものを使って、いよいよ虚構的存在としての整数を認識する。というストーリーを考えているわけだが今日は一旦ここまで。

 

追記

はてなブックマークのコメントに「自然数と整数の区別」というのがあったが、僕はいわゆる0は自然数派なので、ゼロの発見以前の話をするときに自然数という言葉は使わない。

「ツッコミ不在のお笑い」としてのSF

SFの本質についての話をしたいと思います。嘘です。わざわざ火薬庫でタバコを吸うような真似はしません。少しマイルドにして、私がSF小説を書くときの指針について話したいと思います。ひとことで言うならばそれは「ツッコミ不在」です。

私は福島県生まれで、幼少期より大量の納豆を食べて育ったので、大阪人とは話が合いません。嘘です。そんなエビデンスは無い。とにかく、大阪には漫才文化があります。相手が何かしらおかしい事、つまりボケを言って、それに「なんでやねん」とツッコミを入れる、そういうコミュニケーションの形態があるわけです。

そこに私のようにやたらと込み入ったボケをする人間がいると「どう突っ込んでええのかわからん」と苦情を言われます。でも私は別にツッコミがほしいわけではなく、もっと言えばコミュニケーションをしたい訳でもないのです。ただ思いついた事を喋っているだけなのです。人として問題がある気がしますが、その話は脇に置きます。

お笑いにおけるツッコミの役割は、言うなれば「識別」です。「こいつの話はこの点がおかしい。つまりここは笑うところですよ」という事を観客に示すわけです。しかし私はどうもその形態が肌に合わない。笑うか笑わないかは、観客が勝手に決めていいのではないか? と思います。とはいえ私がひとりで変なタイミングで笑ったりすると場が白けてしまうので、観劇の場においてはやはりツッコミという誘導係が必要なのです。

さて、フィクション世界でも「ツッコミ役」というのは存在します。ボケ役の登場人物が何かおかしな言動をして「それはおかしいだろ」と言う係。「すごいよ!マサルさん」におけるフーミンです。

しかし正直なところ、私はこの「ツッコミ役」というのがどうも好きになれないのです。漫才ならともかくフィクション世界におけるボケ役は、どうも彼らなりの正当性あるいは論理に基づいて、真剣に行動しているように見えるのです。他人が真剣にやってるのに、なぜそれを「ボケ」とみなすのか。大阪のノリから言えば「ボケ」は別に悪口ではないのでしょうけれど、納豆ばかり食べて育った私にはどうもそれがピンと来ない。

これはいわば歴史モノにおける「現代人の代弁者」に似ています。幕末や太平洋戦争を扱ったドラマに、やたらと「藩同士で争っていないで日本がひとつにならねば」とか「この戦争は日本が負ける」とか物知り顔で言う人間がいたりします。確かに現代人の視点から見ればそうですし、感情移入のしやすいキャラクターなのですが、それを当時の人間が言っちゃダメでしょ、と思うわけです。

私がSFを書くときの指針がそれで、この世界にはとんでもなくおかしい物が出てきますが、それを作中のキャラクターが「おかしい」と言ってはいけない。感情移入させてはいけない。

徹底的にツッコミを排除して、おかしい人、おかしい出来事、おかしい世界をそのままに、ありのままに提示してほしい、と思うわけです。それが現実世界に住む人間からすれば、ものすごく笑えるコメディかもしれないし、ひどく陰湿な闇かもしれない。でも、彼ら自身はまったく真剣にやっているのだから、「こいつらはボケですよ」などと茶化さないでほしいのです。

「違法コピーがダメなら中古本もダメじゃね?」という意見について

書籍の違法アップロードが話題になるたびによく「作者に金が払われないという点では中古本も一緒じゃね?」という人がいるそうなので、どう違うのかについて私の意見を述べます。

結論を書くと、現行の出版業では「原稿をコピーした回数」で作家の収入が決まるので、コピーしていない古本屋はOKでコピーしている違法サイトはダメという事です。

 

もう少し丁寧に話しましょう。まず電子書籍には中古本がないので話から除外し、

  • 物理書籍をブックオフやメルカリなどの中古市場で売買する
  • 物理書籍をスキャンして、違法サイトにアップロード・ダウンロードする

この2点の比較を行います。「違法だからダメなんだよ」と言うと話が終わっちゃうので、どういう制度が望ましいか、という話をします。

まずそもそも「作家に金が入る」とはどういう事なのかですが、漫画や小説を出すと「何冊売れたか」ではなく「何部印刷したか」に応じて印税が支払われます。*1

たとえば1000円の単行本を1万部刷った場合、それが1万部完売した場合でも、不幸にも9割返本された場合でも、作家は印刷した1万部×1000円の10%、つまり100万円がもらえるという制度になっています*2。発売日の翌月末に支払われる事が多いです。

つまり物理書籍の出版は、原稿をコピーした数だけ作者に金が入るというルールになっています。したがって、ブックオフやメルカリは本をコピーしているわけではないので、作者に金が払われる道理はないわけです。

一方、違法サイトにアップロードすると、電子データが大量にダウンロードされコピーされますので、本来作家に支払われるべき印税が払われていない事になります。よってルールの一貫性という観点からすると、中古本はOKで違法サイトはダメという事なります。

 

さて、この「印刷部数に応じて印税が入る」というルールは作家にとってたいへん重要です。なぜなら売れなくても印税がもらえるのです。

プロの作家というのは一度原稿に向かうと浮世の事は忘れて一心不乱に手を動かしている、と思ってる方もいるでしょうが、彼らも人間ですのでそんな訳もなく、「これ面白いのか?」「こんなの誰も買わないんじゃないか?」「おれの人生はこれでよかったのか?」と思って筆を折りそうになります。

しかし現行のシステムなら「本が出れば、売上はさておき初版印税はもらえる」となるので、ある程度先の見通しが立ちます。作家というのは地球上でいちばん「将来の見通し」に飢えている職業です。2番目はポスドクです*3

よく出版社不要論を主張する人がいますが、この「1冊書いた作家に幾らかの収入を保証する」という点だけでも存在価値は十分にあります。電子書籍中心の時代に移行しても、このような組織は必要であり続けるでしょう。それが出版社なのかどうかは知りませんが。

というわけで、作家のリスクヘッジ(および精神の保護)という観点から「コピー数に応じて印税を払う」というルールが望ましく、その必然的な流れとして「中古本はOKだけど違法コピーはダメ」という形になる、と私は思っています。

 

もちろんこれはひとつの観点であって、他にも「中古本は流通量に限りがあるが違法コピーは際限がない」とか「広い読者層にアプローチするための中古市場の必要性」とか「心情の問題」とか「出版社の立場」とか「にゃーん」とか「5000兆円」とか言うべき点が山ほどあるのですが、当ブログは1400字制限なので今日はここまで。

*1:実売部数に応じる場合もありますが、小説や漫画では今のところ少数派です。

*2:8%や6%のところもあると聞きますが、私はそういう仕事はしない。

*3:独自調査による。

サトウのごはん・かんのやゆべし・ 新年

「ぼくたち・わたしたちの無限の可能性」てなことを小学校の卒業式で復唱させられた記憶がある。たしかに小学生時点で人生の可能性は無限かもしれないが、あいにく実現は有限だ。大人になる過程で学ぶのは、人生のリソースは有限であり、それを各可能性に振り分けていかなければいけないという事だ。というわけで僕が人生から削ぎ落としてしまったものの一つに「料理スキル」がある。

朝食にサトウのごはんを食べる事が多い。炊飯器は持ってるのだが、朝に食べるためには前の晩にセットする必要がある。つまり前の晩に「明日の朝は何が食べたいか」を的確に予測しなければならない。これが僕にとってたいへんな難事だ。きちんとコメを洗って水につけて予約ボタンをセットして寝て、目が覚めてみるとマミーのパスタを茹でてレトルトのペペロンチーノをかけたくなる事がしばしばある。かといって炊きたてのご飯を冷凍庫に入れるという気概もない。仕方ないのでご飯にペペロンチーノをかけて食べたりしている。油とコメの相性が悪い。

そんな話を友人にすると「それじゃ料理の好きな人と結婚するしかないね」といった事を言われたのだが、僕の場合は「料理が下手」というよりも「食欲が下手」なので、ちゃんと料理をする人間からすればこれほど腹立たしい存在はない。「夕飯なにがいい?」「なんでもいい」「そういうのが一番困る」「じゃ○○」「作った」「やっぱり△△が食べたい」とか言って喧嘩になる様子が目に浮かぶ。生活上のパートナーを持つとしたら、おそらく自分同様に食欲処理が下手な人間と、適度に互いを制御しながら外食と買い食いだけで人生を紡いでいくほうが適している気がする。と思ったが冷静に考えると一人でいるのが一番適している。

大学進学以来ずっと一人暮らしなので、なんだかもう「複数人でひとつの家に住む」という事がよくわからなくなってきた。複数人で住むとなると風呂上がりに服を着る必要があるわけだが、そのところがもうわからない。人間に服が必要ならなぜ進化の過程で体毛を失ったのか、などと家族を説得しそうな気がする。先日、正月で帰省した際にも「こうも大勢の人間が一つの家でどうして暮らしていけるのだろう」と不思議に思った。自分もここで18年ほど育ったはずなのだが不思議に思った。

ところで僕の実家は福島県にある。福島県というところは銘菓がたいへん多い。それも観光客向けに作った土産用名物ではなく、地元民が普通にお茶請け等に消費していることは明記しておきたい。三万石の「ままどおる」や柏屋の「薄皮饅頭」あたりが有名だが、そのなかにかんのやの「ゆべし」というものがある。三角形の菓子を2つ並べて菱形状のパッケージに入っているため、先日郷里の友人と「開けたら2個食べなければならない。あれはリア充向けの菓子だ」「雪見だいふくはどうなんだ」「最近は1個だけ開けられるようなパックになっている」といった話をしたのだが、あとから考えるとあの場にいたほぼ全員が既婚者だったので「人間は何があっても非リア芸を続ける」という知見を正月早々得た。

そんな感じで2018年を迎えた。今年もよろしく。

小説稼業1年目終了

去年のクリスマスにデビュー作『横浜駅SF』が発売されたので、これで小説稼業1周年という事になる。単行本は3冊、小説雑誌の寄稿がいくつか。

小説家というのは5年続けば一人前らしいので、とりあえず0.2人前と言っていいだろう。重量でいうと足先から太もものあたりまでだ。「下半身だけは一人前の小説家」という言い方もできる。

1年続けて思ったことをメモ程度に書く。

■小説家は当たれば儲かる。

当たり前じゃねーかと思うかもしれないが、大学の研究職は当たっても儲からない。企業研究者ですら当たっても儲からないので中村修二が裁判をした事は有名。その点、小説家は当たったぶんだけダイレクトに儲かるので話が早い。

1年間の小説稼業で得た金額は研究職の年収よりもだいぶ多い。だいぶは2倍から10倍の間を指すと思ってほしい。つまり唐突に大学を追い出されても数年は何とかなる。今にも任期が切れそうな研究員としてはたいへんありがたい。

■複数出版社で仕事をすることが必要。

KADOKAWAからデビューした直後はそうでもなかったが、星海社から2冊目が出るとやたら他社からの仕事依頼が増えた。「2社目があるなら3社目もあるだろう」と判断されたらしい。集英社双葉社の雑誌で小説を書き、エッセイを他3社ほどに寄稿した。

実際にやってみると、出版社ごとに印税率や原稿料やその他の条件が驚くほど違った。大手ほど高いという訳でもなく、どういう基準なのかは不明。安い方に対し「○○社はこのくらいなんで、おたくも上がりませんかねえ」といった交渉をしたら結構上がった。出版社というのは作家を選べるので、対等に交渉するには作家も出版社を選べる必要がある。

ところで「出版社はもっと作家を育てるべき」という意見があるが、これは作家をフリーランスよりも出版社所属のサラリーマンに近い地位に置くべきという話だと思われる。このへんは個人の気質によるだろうが、僕はフリーランスの方が性に合ってるので「あの作家はうちが育てたんだからヨソでは書かせない」といった面倒な文化は出来ないでほしい。

電子書籍はあまりよくない。

読者としては気にならなかったが、書く側になってみると、デザイナーの方がせっかく面白く作ってくれた部分が電子書籍だとただのプレーンテキストになってしまったり、逆に紙でしか表現しようのない部分を無理に電子にしたせいでやたら読みづらくなったりしていた。

とくに小説などの文字ものはリフロー型になるので、改ページを利用したギミックが使えなくなるし、図版やイラストを入れてもどうもぎこちない。電子書籍の登場でむしろ表現の幅が狭まってしまったように感じる。

ついでに言えば、小説は電子書籍がそんなに売れない。漫画ほどには嵩張らないし、Kindle PW みたいな専用端末でないと読みづらい。

■現状で出版社に頼らない小説稼業は困難。

よく「はじめての同人誌です!」と数百部刷って全然売れず在庫と頭を抱える人がいるが、出版社は新人の小説を何千何万と刷ってその在庫リスクをまるごと抱えて、売れなくても刷った分の印税はくれる。現状で彼らに頼らない稼業は困難。電子小説も現状で期待するほどの規模では無い。特定の出版社が気に入らなければ、他社をあたるべきだろう。

 

以上。来年も小説家業を続けて0.4人前を目指す。