学校制服について:名前のない少数派を尊重する方法は自由しかない
職場におけるパンプス着用強制の反対運動が起きているらしい。僕はパンプスとハイヒールの違いが分からないほど無知だが、服装強制を撤廃することは大いに賛成だ。履きたい人間は履けばいいが、そうでない人間にまで強制することはない。
日本の中学高校を卒業したのであれば、服装や頭髪の規定を受けた人は多いと思う。なにやら世の中には、下着の色を強制したり、地毛が茶髪の生徒を黒く染めさせるところもあるらしい。
ところが、こういう仕打ちを理不尽に感じる人も、学校制服の存在には概ね肯定的だ。僕はこれが不思議でならない。下着の色を指定する教師(学校)が変態であるのならば、上着の色も同様に変態なのではないだろうか? 見える部分を指定するほうが変態度が高い気がするのだが。
Twitter でもしばしば書いているが、僕は学校制服というものを嫌悪している。これは僕の個人的な経験にもとづく。
僕が通っていたのは田舎の公立中学で、いわゆる学ランが制服に指定されていた。僕はもともと首が太いほうなので、襟ホックを閉めると呼吸がかなり苦しい。袖口に飾りボタンがついていて、これが筆記のとき邪魔になる。衣替えの時期が決まっているので、5月末まで長袖を着せられる(教室に冷房はまだなかった)。勉学を妨害するデザインとしか思えないような服だった。
何より嫌だったのは、校名のついた制服を着ることで学校への所属意識を強制させられることだった。僕はこの中学がまったく好きではなかった。教師は服装指導しかしないし、生徒は煙草を吸ったり教師の車に火をつけたりして、NHKの「荒れた公教育の実態」みたいな番組で紹介されるようなところだった。
というわけで、入学式の宿題で作文を出せと言われたとき「学校制服は廃止するべき」ということを書いた。特に何も言われなかった。その後も「服装指導に時間を取りすぎて授業がおろそかになっている」という文章を何度か提出したのだが何も反応されなかった。
仕方がないので「この学校の授業には意味がないので宿題をやりません」ということを宣言して実行した。おかげで通知表はだいぶ悪くなり、「内申書に悪影響があるからちゃんと宿題をやりなさい」てなことを言われた。なるほど中学というのはこうやって生徒を支配するのだな、と思ったが無視した。
今から考えてみると「勝手に私服を着てくる」というボイコットのやり方があった気がするが、そういうことはなぜか思いつかなかった。荒れてる中学だから目立ちたくなかったのかもしれない。
結局内申書にどういう事を書かれたのかは分からないが、志望校には無事に合格した。高校には制服がなかったが、生徒の半分ほどが学ランやブレザーを勝手に着てきていた。こういう選択の自由こそが僕の求めていたものだったのだ。おかげで高校三年間は概ね楽しく過ごした。
さて、最近よく「ジェンダーレス制服」というものが話題になる。これまで男女別だった制服を、個々人で選択可能にしたものらしい。素晴らしいことだ。しかし、世の中の多様性というものはジェンダー以外にも幅広いし、中には男女どちらの制服にも違和感を持つ人もいるだろう。単純に僕のように制服の不合理性や所属意識に耐えられない生徒がいるかもしれない。それならば、いっそ制服を廃止したほうが「多様性の配慮」という観点からすると合理的ではないだろうか?
といったことを Twitter に書き込むと、
「制服は生徒の所得格差を隠せるからいいんですよ」
といったコメントがたくさん書かれる。なるほど、僕が中学時代にあの理不尽な仕打ちを受けたのは「格差を隠すため」なのか。僕は何万円もする不合理な学生服を捨ててユニクロやしまむらの2000円のシャツを着て行きたかっただけなので、経済格差などまったく関係ないはずだが。
「制服を苦痛に感じる生徒」というのは名前のついていない少数派だ。こういう名前のない少数派は他にもいっぱいいるだろう。そういう人間はジェンダーや経済の多様性に比べて配慮に値しないのだろうか?
僕が中学生のころはトランスジェンダーという言葉を知らなかったし、これからも新しい少数派概念がどんどん出てくることだろう。そういう「まだ名前のない少数派」を事前に想定して特別の配慮をすることは難しい。だから余計な規定を作らずに放っておいてほしい。服装を自由にすると見た目が不統一になり「荒れている」と映るかもしれないが、その背後で名前のない少数派が救われているかもしれない。